御嶽山に寄せて

師に出会い、

師に道を示していただき、

師に随って歩き続けたい。

そう思ってここまでやってきました。

そのことは私の誇りでもあり、喜びでもあります。

たくさんの事を師に教えていただきました。

そして、導いていただきました。

 

ある時はレッスンという形で、ある時は勉強会という形で。

頭で理解できることはたくさんありました。
正確には「わかった気になっていた」のです。

それなりに人生を渡ってきた当時の私にとって、できない自分を認めるなんて到底できません。
処世術としての謙虚さは知っていても、それは所詮そこまでのものだったのでしょう。
(自慢している人より、控えめな方が好かれますからね)
愛されキャラに徹するために、自分を偽っていたのでしょう。

どんなにムツカシイ理屈でも、素因数分解して平易な言葉に直せば必ずわかるはず。
そんな驕りもあったように思います。

だから、なんとなく判った気になっていました。

そう判っていたはずなのです。

でも、できない。

振りはできても、そのものにはなれなかったのです。

頭ではわかる。
でも、できない。
できないということはわかっていない。

私にとってはじめての経験でした。

そんな私がここまで来れたのも、峰入りという行があったからだと思います。

山に入ったことなど無い私。
最初は自然や風景に感動し、峯入りをした気になっていました。

しかし、
師と共に道を歩くことから得られる喜びや学び。
集団行動に身を投じることで得られる心の乱れ、弱さ、そして同志愛。
そして、自分を追い詰めることで
やりたくない自分
言いわけをしようとする自分
できないことを何かのせいにして逃げようとする自分・・・
様々な自分と邂逅することができました。

座学での学びが立体的に自分の中で再構築されるのが判ります。

不立文字

わからないことをわからないままに

身を投じなければわからないこと
己の知識や価値観を捨ててこそ見える世界

言葉ではなくただ感じる。
言葉以外の教えがある。

わからないけど確かに何かがある。

私にとっての峰入りの最初は、この学びの最初は御嶽山でした。

 

気高く、凛と澄んだ空気と光。
どこまでも爽やかで、それでいて暖かいプラーナ
優しさの中にある品格と厳しさ。

学びに置いて必要不可欠な
先師が何代にも渡って歩いてこられた道。
つまりは信仰。
神仏の存在。

わかったと思ったらわからなくなる。
そんな繰り返しでしたが、
それらが「確かに存在する」ということ。
理屈や知識一辺倒の私がただそれだけを確信できたのも、御嶽山だったのです。

御嶽山で私はこの道を歩いていこうという選択をすることができました。

あの日、師や仲間と共に御嶽の一部になれた喜びは、今も私の支えです。

 

時に優しく。
時に厳しく。
突き放された時もありました。
優しく包まれたときもありました。
たくさん、たくさん教えていただきました。
それでも、師は、御嶽は、たくさんの山々は、共に歩む仲間は私を見捨てませんでした。

御嶽山での感動が、その先の道と神仏とのご縁を開くことにつながりました。
自分を守ることで精一杯で、自分の身勝手な価値観で縛られていた私に
いのちを愛し、己の道を明らかにする道を開いていただくことができました。

だから、今も、これからも、歩き続けることができるのだと思います。
まだまだ未熟な私ですが、今も御嶽での喜びと痛み、感動と反省が私を支えてくれています。

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