いまを生きる「古事記」冊子化のお知らせ

2年数か月にわたってみんなと学んできた古事記の勉強会。

「神さまっていったいどういった方なんですか?」
「神社とお寺の違いってなんなんですか?」

霊性とインナーチャイルドの学びを進めるうえで、【神さま】は避けては通ることはできません。
宗教心ではなく信仰心。
みんなで神さまについての勉強会を始めたい、いえ、始めなくてはいけないと思いました。
一番基本に立ち返った上で、一番無垢な情報を。
そう考えた時に、古事記をテキストに勉強会を進めようと考えたのが3年前。

非常に難産で、私自身わかっていないことが多すぎて、見直して自分で赤面してしまう部分もあります。
つっこみどころ満載の勉強会だったかもしれません。
専門の方から見れば笑止な内容なのかもしれません。
それでも、古事記を、神さまの息吹を身近に感じていただけたなら。
霊性やインチャが私たちの人生にとっていかに大切なものなのかを感じていただけたなら。
それだけを願って、皆さんの協力を頂きながら進めてこれた全22回の勉強会。

今回、アマゾンにて全4冊にて冊子化させていただくことができました。
本当にすごい時代になったもんです。

もしご興味のある方は、手に取っていただけると幸いです。
繰り返しになりますが、どうか必要な方に霊性やインチャの学びとのご縁ができますように。
どうぞよろしくお願いいたします。

いまを生きる「古事記」1
いまを生きる「古事記」2
いまを生きる「古事記」3
いまを生きる「古事記」4

新しい勉強会のお知らせ

全22回の古事記勉強会が大団円を迎えてもうすぐ半年を迎えます。

以前から勉強会等々でお話ししていた仏教の勉強会を始めたいと思います。

仏教っていう言葉は知っていても具体的にどういう教えなのか?
仏さまって何なのか?
わかっているようでわからないこと、たくさんあると思います。

全24回の予定で仏教の勉強会を始めます。

【霊性とインナーチャイルドⅣ】
「仏さまを知り 仏さまとして 仏さまと共に生きましょうの勉強会」

略して「仏さまの勉強会」のスタートです。

私もまだまだ修行の身。
わからないことがいっぱいです。

ただひとつだけ言えることは、仏教とは「生きる教え」。
「善く生きるいのちの教え」です。
とってもとっても難しいけれども、そこにあるのは愛と優しさに満ち満ちた学びです。

そして、やっぱりそこにあるのはインチャの癒しと霊性の向上でした。

私も一生懸命勉強します。

どうかこの勉強会を通して、みんながもっともっと自分の人生を愛せますように。

全24回を設定しています。

古事記もそうだったけど、やっぱり足りなくってオーバーしちゃうかもしれません。
個人的には3年越しもあり得るかなと思っています。

あと、この告知で思い出したけど・・・ブログも放置せずに書き込んでいきますね。

いずれにしても、新勉強会!
全22回の古事記勉強会が大団円を迎えてもうすぐ半年を迎えます。
以前から勉強会等々でお話ししていた仏教の勉強会を始めたいと思います。

仏教っていう言葉は知っていても具体的にどういう教えなのか?
仏さまって何なのか?
わかっているようでわからないこと、たくさんあると思います。

全24回の予定で仏教の勉強会を始めます。

題して・・・
【霊性とインナーチャイルドⅣ】
「仏さまを知り 仏さまとして 仏さまと共に生きましょうの勉強会」

略して「仏さまの勉強会」を始めさせていただきます。


私もまだまだ修行の身。
わからないことがいっぱいです。

ただひとつだけ言えることは、仏教とは「生きる教え」。
つまり「より善く生きるいのちの教え」
「いのちを輝かせる」教えです。
とってもとっても難しいけれども、
そこにあるのは愛と優しさに満ち満ちた学びです。
そして、やっぱりそこにあるのはインチャの癒しと霊性の向上でした。

私も一生懸命勉強します。

どうかこの勉強会を通して、
みんながもっともっと自分の人生を愛せますように。
せっかくのこの命、萌え騰がらせることができますように。

仏教って、古事記の実践編なのかもしれませんね。

今回、全24回を設定しています。

古事記もそうだったけど、
やっぱり足りなくってオーバーしちゃうかもしれません。
もしかしたら3年越しもあり得るかなと思っています。


あと、この告知で思い出したけど・・・
ブログも放置せずに書き込んでいきますね。

いずれにしても、新勉強会!

よろしくお願いいたします。






日月庵 飯村祐生
合掌

一年間ありがとうございました。

早いもので、あと少しの仕事を遺しつつも、本日無事に今年最後のレッスンを終えることができました。

そしてこの12月はちょうど2年前に始めた古事記の勉強会が最終回を迎える月でもありました。

2年越しの、回数にして24回の勉強会。
古事記を読み解くという大仕事、私などにとってはあまりにもだいそれた試み。
そんなことは重々わかってはいましたが、どうしてもやってみたい。
やらせていただきたい。
そんな思いで始まった勉強会でした。

古事記の学びは、私たちそのものでした。
そして、驚くほどに私たちが歩ませていただいている学びそのものでした。

これほどまでに長い勉強会。
最後の最後まで共に学んでくださった全8クラスの皆さん、本当にお疲れさまでした。皆さんと最後まで走り切れたことは私の誇りです。
どうかこの学びを日常に活かしていただければ幸いです。

駆け足で走り抜けた感のある2018年でしたが、皆様にとってはどんな一年だったでしょうか。

どうか皆々様が善き新年をお迎えになられることをお祈り申し上げます。

来年は・・・もう少しまじめに更新しようと思います。

どうぞ来年もよろしくお願いいたします。

 

今年もよろしくお願い致します。

あけましておめでとうございます。

遅いご挨拶ですが、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
私たちも無事に新年を迎え、初詣にもお参りさせていただくことができました。

今回はひかせていただいたおみくじの言葉。
心に来るものがありましたので、紹介したいと思います。

 

信仰はわが播く種にして、智慧はわが耕す鋤なり。
 身口意における悪業を除くは
 わが田における除草なり。

 

この言葉で思い出すことがあります。

昔、マガダという国でお釈迦さまが托鉢をされていた時のことでした。
ある人が

「みんな自分で種をまき、畑を耕し、草を抜いて、やっと収穫して食べ物を得ているんだ。
お前も自分で耕して食べ物を得たらどうなんだ」

と言います。

それに対してお釈迦様は

「私もちゃんと耕して収穫をしていますよ」と答えられます。

それを聞いたその人は「そんな姿を見たことがない」と怒りますが、
お釈迦様はこう仰ったそうです。

「人々の心の中に信仰の種を播き、心を育て、煩悩の草を抜いているのです。」

世の中には直接目に見える形で、人さまの役に立っている仕事ばかりではありません。
もちろん汗をかき、実績を積んでいく方々は素晴らしいと思います。

でも、人に喜びを与えようと日々努力する無名のダンサー。
すぐには利益には繋がらなくても、より良いものを育てようとしている農家の方。
子どもを守り、子どもの好奇心を伸ばそうとする方。
芸術や暮らし方を通じて豊かな時間を伝えたいと努力する人達。
家族を守り、家族の心の支えとして必死で努力する人達。

世間的には馬鹿にされることも多いかもしれません。
馬鹿にはされずとも陽の目を見ることは少ないのかもしれません。
でも、心の豊かな生き方を歩む道。

私は尊敬します。

そして、私自身そうありたいと年頭に改めて思いました。
頼もしくもあり、身を引き締められる言葉でもありました。

そして、もうひとつ裏側には

 

しるべする人をたよりにわけいらば
        いかなる道かふみ迷ふべき 

 

明治天皇の有名な歌です。

導く人を信じて進むのならば
どのような道であっても踏み外す事があるものか・・・という意味でしょうか。

ありがたいことです。

私も一歩一歩、歩いていきたいと思います。

今年は地道に、『負ける』一年にしたいと思います。
『負け方』にこだわりたいと思っています。

今年も一年間よろしくお願いします。

私のこと

皆さんに
「正しい」を疑おう。
「ダメな自分」を認めよう・・・なんて言ってますが、
「そう言うあんたはどうなの!?」って声が聞こえてきそうです。
そこで、少し自分のことを書いてみます。

実は私はコミュニケーションがまったく苦手です。
よく「話すのが上手ですね」など言ってもらえますが、内心なんとも言えない気持ちになります。
人が苦手なのかもしれません。
その奥には嫌われたくないインチャがあるのだと思いますが、人懐こい自分は作り上げたペルソナなのかなと思います。

本当は話すのが大の苦手です。

どう見られてるかが怖い。
期待に応えられないと怖い。
そもそも期待なんてされてないんじゃないかと思うととんでもなく恐ろしい。
それだったら一人でいいやと思ってしまいます。

子ども時代にいじめられていて、殴られたり殴り合いする方が、シカトされるより何万倍も楽でした。
誰にも相手をされなくなるのが一番怖かった。
だから、物心がついてから何としてでも無視されない存在になろうとしていたと思います。
無視できない存在=優秀な存在。
でも、優秀なんてそうそうなれない。
その時は批評家のように上から目線で講釈垂れて、さも価値があるように思いこんでいた、
学生時代のクラブや会社員時代も今思えばそうだったと思います。
アウトローを装って、大多数に反発してみたり、上司に反発してみたり。
正論ぶっているけど、結局はうまく協調できないだけだったと思います。
そんな自分を「あいつらはダメだ」っていう理屈で自分を守っていました。

その一方で、飲み会なんかが苦手で苦しくて。
「なんでこの人たちはこんなに楽しいんだろう」と冷めた気持ちでいることの方が多かったのです。
だからなのか、心の許せる友人と云う奴は、同門の仲間以外では一人か二人しかいません。

その一方で、嫌われたくないから道化を演じる。
「話すのが上手い」と仰っていただけるのはここで身に付けたスキルでしかないと思います。
何を話せば相手が喜ぶか、嫌われないか、場が明るくなるか。
必死で身に付けたスキルです。
それは裏返せば、自然体では相手を喜ばせることはできないし、うまく伝えられないし、気も回らないということです。

先生との個別レッスンではいつも汗だくです。
言いたいことや伝えたいことが多すぎて、上手く伝えることができないのです。
多分何言ってるのかわからないような状態です。
あれやこれや言葉ばかりが多くなって、結局何を言ってるのかわからない。
先生は言葉ではないところを観ていただいているので安心ですが、それも汗だく。
毎回御迷惑をおかけしていると思います。

思い起こせば、伝えることにコンプレックスがあったのだと思います。
「わかってもらえない」
恋愛などでも同じでした。
上手く伝えられない、誤解される。何度も痛い思いをしました。

伝えることがとても苦手で、わかってもらえないのは「伝え方が悪い」からだと信じていました。
わかってもらえないなら伝えるスキルを磨こうと頑張ってきたのだと思います。
それはもちろんこの世的な努力という意味で。
こんなに頑張ったのに相手は「わからない」
それって「わかろうとしていない」んだと決め付ける。
だから、わかってもらえないことがとても怖い。
時に恐れが行きすぎて怒りさえ感じることもあります。
この世的な努力をやりすぎたから、「わかってもらって当然」という意識があるのかもしれません。
自分は正しい。
わかってもらいたい。
わからせたい。
先生になりたい意識とでも言うのでしょうか。
ものっそい、偉そうです。
偉そうな意識ですが、こう考えるとただただ怖がっているんだなと思います。

そんな自分だから、コミュニケーションが本当に苦手です。
何を話せばいいのかわからないのです。
だから役に立とうと頑張ってきたと思います。
役に立つ時だけ満たされるのです。
でも、言いかえると役に立つ時しか需要がありません。

「上手く使われる」ことに腹を立てつつ、「上手く使われてもいい」から役に立ちたい。
必要とされる価値ある自分と思われたいという気持ちと、役に立たない時に自分は誰にも必要とされないんだという矛盾に苦しんだこともあります。
一人でいるとさびしいけれど、集団でいるともっと孤独だ。
この勉強に出会うまでは。ずっとそんな感じを繰り返してきました。
だから、上手くつかわれる=優しくされる=価値がある・・・。
「自分は役に立たないと価値がない」いう意識も強いと思います。
だからこの場面でどう振舞ったら「役に立つ」のかを終始考えているように思います。
純粋に相手の為でもなく、ただ怖いからなんですね。
結局、「人の役に立つ仕事がしたい」と治療家を目指しましたが、それも自分を安心させたかっただけだったのかなと思います。

その一方で、できる振り・役に立つ振りをずっとしてきましたが、決められたことができないのです。
決められたことを決められた通りにするのが本当にできない。
いろんな場面で(神事の準備とか)大汗かいてやっている時は大抵そんな感じです。
一生懸命やろうと、楽しもうと思っていてもどうしても上手くできません。
そう考えると今まで選んできたバイトや仕事は自分裁量でこなせるものばかりでした。
学生時代やっていたファミレスのバイトも緊張で料理を運ぶ時に汗が入りまくって叱られて・・・やらなきゃいけないルーチンはどうしても覚えることができません。
交通誘導のガードマンやってた時は誘導した車をオカマさせたこともあります。
決まったことをする仕事、ただそれだけのことが本当にできませんでした。
というか、私の場合、好き勝手できないと何にもできないという弱さがあるのだと思います。

上手く続けられたのは塾の講師のバイト。
あの時は何にも考えてなかったけど、授業に入れば自分のペースで、自分に生徒が従ってくれる環境が楽だったのかなと思います。
会社員時代も、営業はすべて自己裁量。
その意味で性に合っていたのだと思います。
折衝中は誰にも文句を言われない、結果さえだせばいい。
自分ひとりの舞台ですから。
だから気を遣わなくていい、慕ってくれる後輩ばかり身の周りにおいてました。
成績さえ上げれば認められる。
認められるために必要な「正しさ」が手に入るのです。
でも、それは自分じゃない。
自分が愛されてるんじゃない。
だからいつまでも満たされないし、苦しかったんだと思います。

例えば飲み会。
上司が入ってくるなんてとんでもない。
私が大事にされなくなるし、私自身が気を使わなくてはいけない。
例え同期でも後輩でも、優れてそうなやつはいらない!
私の価値が埋もれてしまうじゃない!
今思えば、そんなことばかり考えてたと思います。
慕ってくれる、(口では)尊敬してくれる後輩ばかり集めていたのは
結局言いなりになってくれるからだったんだなと今になって思います。

とは言っても、根回しや社内営業も必要です。
最低限の社会人としてのコミュニケーション力はこの時養われたと思っています。
鍛えられた部分もあると思います。
「伝える」というスキルも。
その意味では感謝しています。
でも、それはこの世的なスキルでしかなかったんだと最近思います。
私自身が変わったわけではなかったのです。
結局はお山の大将でいたかっただけなんだと思います。

実は私は勉強会が苦手です。
する方です。
必ず「わかってくれない」人がいるからです。
質問されたり、ダメ出しされる時、心の奥底で怖がっている自分に気づく時があります。
普段はダメ出しされにくい環境にいる私にとってありがたい環境です。
何より生徒さんの存在は非常にありがたいのです。

同じようにたくさんの人とまみえる神事も今の私にとっては大切な場所です。
一人じゃないから気が付けることがたくさんあります。
どうしようもないところはどうしようもないのですが、こうやって書いてみると恥ずかしいと思いつつ、可愛い自分だともちょっぴり思ったりしす。

この勉強にあえて幸せです。
もうどうしようもないくらい、上には上があるんだから。
あんまり上過ぎて、優劣なんてどうでもいいって。
もう比べようなんて考えもしないですむはず。
インチャさんはなかなか納得してくれないけど、
昨日の自分とだけ比べられるようになりたいです。
一人相撲のお山の大将をやめて、今までの人生を認めることができるように、
自分と戦えるように、もっと自分を許せるように頑張っていきたいと思います。

スキルを自分自身だと勘違いして「わからせたい」をまき散らせたように思います。
ほんとすみません。
でも、スキルは苦手の裏返し。できない自分の裏返し。
この文章も長ったらしいし・・・
やっぱり伝えるのは苦手だなぁ。
スキルはスキルとして、使う時にだけ使えばいいや。

その奥にある傷を癒しながら、伸ばすべき良いとこ見つけていきたいと思います。
改善できるところは頑張って、できるかどうかは別にして。
こんな私ですが、どうかこれからもよろしくお願いします。

竜ヶ岳峰入り

本日、滋賀県と三重県の県境に座す竜ヶ岳に峯入りして来ました。

日月庵に集う21名でお山に入らせていただく喜びを共にしました。

8月の台風で登山道に至る道が崩壊して長く通行止めになっていたりと不安要素もありましたが、無事に満行することができました。
曇天の中の行でしたが、山頂に近づくにつれ雲が晴れ、本当に素晴らしい天候の中で全員無事に満行することができました。

決して楽な行程ではありませんでした。
しかし、ただ目の前の一歩一歩を進めていく。
繰り返し、繰り返し、黙々と、歩みをただ繰り返す。
誰もが黙々と、泣き言も言わずに歩みを進める姿を見守りながら
最後尾から手を合わせる気持ちで私も行じさせていただきました。
やがて視界が青空の一色だけになった瞬間の喜びを忘れることはできません。

下山時には、歩んできた道の厳しさを改めて知ることができたのではないでしょうか。
それは、必ず自信になると思います。

弱さや至らなさも見えたことでしょう。
それは必ず新しい目標になると思います。

参加者の峯入り後の変化を観るに、やはり峯入りの、お山の素晴らしさを実感しました。

峯入りの幸せに浴することができたことを本当に嬉しく、またありがたく感謝するばかりです。

 

 

山の神さま仏さまに、師に、そして様々な事情の中で
送り出してくれた皆さんの家族に
心から感謝いたします。

合掌